凛子さんの部屋

2+2=凛子さん

牢獄の性質──佐藤優『獄中記』、中山元『フーコー入門』

Man könnte daraus, mit einiger Keckheit, folgern, daß es nötig sei, in irgendeiner Art von Strafanstalt zu Hause zu sein, um zum Dichter zu werden.

 

そこから少し大胆に推測すれば、詩人になるためには、牢獄の性質に精通している必要がある、と言える。

 

──Tonio Kröger 西宮凛子訳 

 今、自分が勉強しなくてはいけない時に、他人の勉強記録、または勉強論を参考にしようとして時間を潰してしまう。受験シーズンに問題集や単語帳ではなく、『ドラゴン桜』だけを読み耽るようなもので、それでは何も向上しないと思いつつも、そういった本を開いてしまう。読書の効用は様々だろうが、そのうちの1つに、非現実を疑似体験出来る、ということがあるかもしれない。私にとって、1日中を勉強に費やすというのは1種のファンタジーで(注:私はかなり暇人で、時間がないという意味ではない。やる気の問題である)、他者がひたむきに勉強する姿は、さながら『指輪物語』の1場面のようなもの。その浮遊感を与えてくれる1人が佐藤優という人だ。彼は、最近の私のマイブームになっている。まずは、多作な佐藤の著者の1つ、『獄中記』(岩波現代文庫)について語りたい。題名の通り、獄中で佐藤が記した日記、手紙の集成だ。佐藤がなぜ投獄されることになったかは、よく知らないので述べない。佐藤は投獄されることを予期していて、そのせいか、あまり拘置所生活の苦痛を述べない。むしろ、外交官の職務に忙しかった頃に比べて、学習が捗ると書く。また、釈放されて家を建てることになったら、勉強用に今のような部屋を作りたいとも述べる。しかし、拘留者が持てる本の冊数、文具の購入量は決められているという事実を本書で知る。確かに、『バキ』のビスケット・オリバではあるまいし、本がいくらでも手に入る訳ではないと思っていたが、その制限の厳しさに驚く。寝転びながら本を読んでも良い時間が決められているという記述には思わず苦笑いしてしまう。しかし、佐藤はめげない。取り調べ、公判を耐え、自分がなぜ投獄されたかを冷静に分析し、持てる本を最大限に活用して、古典ギリシア語、ドイツ語に取り組み、ヘーゲル精神現象学』を読解し、その記録ノートを作成する。その姿勢、「不自由のなかの自由」から、人間の自由とは何だろうか、という疑問が浮かび、そこからある本が連想された。

 中山元フーコー入門』(ちくま新書)である。この本は、佐藤が『獄中記』で言及していた哲学者であるミシェル・フーコーの解説を目的としている。フーコーの入門書ではあるが、哲学や権力論の入門書ではない。碩学フーコーとて、過去の知識の累積の上に立っているということがよく分かる。それで、デカルト心身二元論だとかいう単語が急に飛び出してくるものだから、読むのに苦労したが、その筆致から著者が明晰にフーコの思想を描こうとしていることが窺える。中山元という人は、ニーチェの翻訳を光文社古典新訳文庫から上梓していて、そちらもリーダビリティーが高かったのを思い出す(中山は、カントの『純粋理性批判』の翻訳もそこから出している)。それでも、フーコーフーコー。読んでいる途中、なぜ私はこんな難しい本を読んでいるのかと思ってしまう。確か、有斐閣から出ているNew Liberal Arts Selectionシリーズの1冊、『政治学』(補訂版ではないやつ)が切っ掛けだった。その権力論のセクションで私は、ニーチェから影響を受けたというミシェル・フーコー、その人を知った。その後、図書館で借りた『監獄の誕生―監視と処罰』(新潮社)は序盤の残虐な刑罰の記述をどうにか乗り越えても、全くお手上げだったし、珍しく2回も読んだ『フーコー入門』ですら理解出来たとは到底言えない。けれど、何となく思ったのは、人間の自由は、一種の矛盾状態なのではないかということだ。私なりの例え話をすると、古代ギリシア人の自由などがそうだ。奴隷があくせく働いている横で、古代ギリシア人が芸術に、哲学に取り組むという状態。フーコの関連書を読んでいると、どうもそのことが、他人事ではないような気がしてくるのだ。生成文法という立場を立ち上げたことで名高い、言語学者ノーム・チョムスキーフーコーは対談を行なっていて、そこでも揉めたのが自由という概念についてだった。


日本語字幕付きである

チョムスキーは、人間とって基本的な必要要素、すなわち創造的な作業、創造的な追求はアナルコ・サンディカリスムという立場において、これらが抑圧されなくなると言う。フーコーはそれとは異なる立場を取る。「理想社会モデルを定義することも提案することも出来ません」と。また、フーコーは喫緊の問題はそこではなく、権力がそれに従わない者を処罰するというシステムにある、と言う。もし、社会全体が、監獄の如き場所だったら。フーコーはそう提案しているようにも聞こえなくはない。人間にとって自由とは何か。またそれはいかにして達成出来るのか。トーマス・マンは『トーニオ・クレーガー』のなかで、「詩人になるためには、牢獄の性質に精通している必要がある」と書いた。詩人になるためだけではない。私達が、自由であるため、人間であるために、「牢獄の性質」について、考え続けなくてはならないのではないか。